主体的な遊びで育つ子どもの心について

「保育園・幼稚園での運動指導頻度による運動能力の比較」の調査結果で、運動能力を高めようとして指導者主導の技術指導がなされればなされるほど、運動能力が低くなるという資料があります。一瞬矛盾しているようにも思えますが、いかに遊びの要素が大事であるかを示唆しているようにも思えます。
また別の調査では、「園の保育形態別に見た運動能力の比較」において、保育形態が一斉型(保育者が決めた活動をクラスの子どもが一斉に行う保育)・自由型(子ども一人ひとりが自由な活動をする遊び保育)・どちらもある半々型(子どもの実態に合わせて経験が広がるような活動が適時適切に準備された保育)の中で、半々型の保育を行っている園の子どもの運動能力が最も高いという資料があります。
頻繁に外部講師を入れて一斉型の保育プログラムを行う園は、子どもの生活と遊びにあまり良くない影響を及ぼしているようにも思えます。

 遊びを考える時に結果よりもその遊びにどんな動機があるかが大切であると思います。
例えば、赤ちゃんの場合は動きの内容よりも、そこに興味を持てる物があることが一番重要です。興味がある物があれば身体は自然に動きます。動こうと思えば、ハイハイも活発になります。子どもは、心の動きと身体の動きが一体です。
自分で出来ることが、とても嬉しいと感じられる経験をいっぱいさせてあげたい。
子どもの探索行動や思考錯誤する時間をゆったりと見守ってあげる時間が大切なのかもしれません。

 動機づけは、人間に行動を起こさせるための精神的なエネルギーを供給する働きであり、意欲に繋がります。人間は、生まれつき自分らしく能力を向上させようとする傾向を持ち、それを追求する行動が遊びであると考えられています。そこから、子どもたちの自己決定を出来るだけ尊重し、やりたいだけやらせてあげ、面白いから何度でもやる自由を保障してあげることが重要です。
子どもが自分を高めようとするものが遊びにあり、その遊びは自発的なものでなければなりません。

愛情の迷い道

 お釈迦様の教えの中に、「わが子だけを可愛がりすぎて、餓鬼道に落ちた母の話」があります。親の深い愛情がなければ子は育ちませんが、わが子にのみ過剰に与えすぎ、期待に押しつぶされた子どもが起こす事件も多発しています。
可愛がっても可愛がらなくても、子の心を歪めてしまうかもと思うと、親とは辛いもの。「ほどほど」って難しいですね。

ハチドリのひとしずく ~いま、私にできることを~

森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは いったりきたり
くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは 火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをしていったい何になるんだ」といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」

 この物語は、南アメリカの先住民に伝わるお話です。
私たち人間は、全ての生き物の中で最大の力を持つようになりました。
残念ながらその力はしばしば、人間同士傷つけ合ったり、自然環境を壊したりすることに使われてきました。
でも幸いなことに人間は、小さな地球人として、そのことを自覚することができます。
そしてその気になれば、力を合わせて水のしずくをたくさん集め、燃えている森の火を消すだけの力を持っています。

 地球温暖化、戦争、飢餓、貧困、幼児虐待・・・。
私たちの生きている世界は、深刻な問題でいっぱいです。
しかし私は、それらの重大な問題より、さらに大きな問題があるという気がします。
それは、「これらの問題に対して、自分にできることなんか何もない」と、私たちがあきらめを感じてしまっていること。
もしも、この無力感を吹き払うことができたら、つまり、「私にもできることがある」と思えたら、その瞬間、私たちの問題の半分は既に解決しているのではないでしょうか。